宗教の限界について

突然ですが、宗教についてどんなイメージがありますか?

 

日本ではあんまりいいイメージがない人が多いのではないでしょうか。

 

私もいいイメージはありませんでした。

 

でもそんな私も宗教に入ったことがありました。

 

今日はその体験談についてお話します。

 

どうして宗教に対してどちらかというと悪いイメージを持っていた私が宗教に入るようになったのかというと大学の友達から薦められたのがきっかけでした。

 

好奇心が旺盛だったし、ほんとに苦しみが解決するのならやってみようかと思い、入ってみました。

 

やることは極めてシンプルで毎日2回朝と晩にお経を唱えるだけ。

 

入る前から信仰心のなかった私。でもやってみたら何か変わるのかと思い、毎日欠かさずお経を唱えてみました。

 

信じていないのにお経を唱え続けるとは今思うととっても謎ですけど・・・

 

お経を唱え続けると何か変わるのかなぁと思ってやってみたわけです。

 

結果はどうなったと思いますか?

 

結果はお経を毎日毎日唱えても何の変化も自分には現れませんでした。

 

毎月定例の会があって、そこでは成功事例をみんなの前でシェアをするということをやっていました。

 

要するに信仰心があつい人ほど徳を積むことができ、現実がいい方向に変わるというわけです。

 

今自分に起こっている悩みが解決しないのであれば、それは信仰心が薄いからということなわけです。

 

それで、自分もそれ以降もお経を欠かさず唱え続けましたが、一向に信仰心というものも身につかず、やってて何の意味があるのだろうと思うようになりました。

 

それでやめたわけですけれども、辞めてみて思ったのは最初に決めていることがすべて現実をつくりだすということを気づきました。

 

はじめから宗教のことをほんとかなぁと疑っていた中ではじめたのがそもそもの原因だったなぁと。

 

かと言って信じればいいのかというとそれも私にはよくわかりません。

 

今思うのは信じる力は現実を変えるほどすごい力になることもあるとは思うけれども、信じることができない人には宗教は不可解なものでしかありません。

 

それと宗教は排他的です。

 

自分が入っている宗教が一番だと思いこんでいるので、その宗教に入っていない人は幸せになれないという思い込みが強烈なのです。

 

だから、宗教に入っている人だけでとどまりがちで、ましてや他の宗教と仲良くなるなんてありえないことです。

 

それなのに、世界平和を標榜しているので、世界平和を目指しながらも排他的であるという矛盾を抱えているのが私が感じている宗教の限界ではないかと思います。

 

私がその宗教に入ったときはその友達はとっても喜んでいました。

 

でも私が脱会するとなった途端に、入っているだけでもいいから脱会はやめてほうがいいと言われました。

 

友達の意見としては脱会すると幸せになれないというわけです。

 

だから、辞めるのがとっても大変でした。結局やめることはできましたが。

 

宗教を否定するつもりはありません。

 

そんなに詳しくないので違っていたらすいません。

 

宗教ができた時代背景としては、貧富の格差や、ヒエラルキーが固定されていて、人間の尊厳が全く無かった時代に信じることで救われるということで、宗教ができたということです。

 

それから時代も目まぐるしく変わり、そんな時代に比べれば資本主義の社会に生きている私達は、結婚も自由、職業も自由、参政権も与えられ、ある程度の尊厳は満たされるようになりました。

 

それでも世界の多くの人が宗教に入っているというのは資本主義によって自由を手に入れることはできたかもしれないけれども、自分の心を満たしたり、自分だけが抱えている罪悪感をなくすことができないからなのではないかと思います。

 

でもさっきの話に戻ると信じることができない人には不可解なものであるという構造は変わらないし、宗教間の争いを今も変えることはできないという限界を抱えたままです。

 

これからの時代は心とは何なのか、人間がどこからきてどこにいけばいいのか、そのことを理解、納得できる教育が必要ではないかと思います。

 

そうしないと宗教間の争いはいつまで経っても終わることはありません。

 

これからの時代の方向性の鍵を握っているがntechです。

 

ntechは自分が思う地球はない、自分が思う太陽はない、自分が思う自分はないということを理解納得できる教育です。

 

この現実が錯覚世界であること、バーチャルな世界であることを理解できることで、この現実空間を統制することができます。